2014年10月05日 17:23

僕の親父は卒寿を迎えたばかりだ。その記念すべき日を前に、心不全で倒れてしまった。

幸い一命はとりとめ、いまでは一人で食事ができるまでに回復した。

まずはひと安心だ。

病院に父を見舞いながら、ふと「父親」という存在について考えてみる。

誤解を恐れずに言えば、ぼくは「父」の威厳を感じたことがなかった。

「夢」を知ることもなかった。しつけられたという記憶もない。きっとほったらかしにされて育ったはずだ。

でも、父の「慈愛」は時に感じることはあった。

いったい、僕の父に「城」はあったのだろうか?

僕の父は、一家の大黒柱的な存在ではなかったけれど、家族をないがしろにしたこともなかった。

世間一般の父親像のなかで、僕の父親像はきっと淡泊であったに過ぎないのだろうか?

いや、そうじゃない。僕には3つ上の兄がいて、若い時から父とは衝突していた。

父の「暴力」と対峙していた兄をただ見て見ぬふりをしていた僕は、よく言えば「平和主義者」、わるく言えば、「根性なし」なのだろう。

不思議なもので、いま90歳の父親と63歳の息子は、どこか親しい友人のような会話をしている。

「父を詠むただ字余りの夜長かな」

「魚ならば好きな海ゆき冬隣」。