自己紹介~DUEってどんな人? 

先祖は、秋田佐竹藩お抱えの刀鍛冶。

祖父の代まで鍛冶屋を営み、母屋の隣に作業場があった。

「トンテンカン」という金槌の音が子守唄代わり。

サーキット場のピットに入ってマシンを組み立てる音を聞くと、妙に心が弾む。これも「DNA」なのだろうか。

大学時代、沢木耕太郎の『一瞬の夏』と山際淳司の『スローカーブを、もう一球』を読んで衝撃を受け、スポーツライターになりたいと思った。でも、もし生まれ変わることができたなら、イタリアでフェラーリのエンジニアになる夢を追うのも悪くないかなと思う。

 

主にスポーツ記者として、約20年、某全国紙で働いた。

大相撲の若貴時代、F1中嶋悟の鈴鹿ラストラン、野茂・古田・赤星・松坂らが活躍したアマチュア野球--。どれもこれも素晴らしい思い出だ。

だが40代となり、気がつくと「現場」から離れ、内勤デスクになっていた。

後輩たちの原稿を直すのは、自分の性に合わないと思った。

 

一方、心の奥にはいつも「イタリア」があった。

1999年、会社を1年間休職してイタリアに語学留学。イタリア人やイタリア文化の多様性、そして日本とは対照的なメンタリティに魅せられた。

日本に戻って復職したが、結局5年後、会社を辞めてイタリアに戻った。

「生涯一ライター」として、イタリアを追い続けようと思った。

そのためにも、イタリアの大学に入り直して、一から言語と文化を学びたかった。

 

イタリアでは「ジャーナリスト」が非常にリスペクトされている。「マスゴミ」などと揶揄される日本とは大違いだ。

というのも、彼らにとってジャーナリストは「国家資格」なのだ。

新聞・雑誌・テレビの記者になるためには、数々の厳しい国家試験をパスしなければならない。まずは新聞社で「見習い」として1~2年ほど記事を書き、続いて試験(筆記・口答)が待っている。合格者は極めて少ない。サラリーマン化した日本の記者とは、そもそも志が違う。

同ライセンスを取得して、イタリアで記者をしている日本人はまだいない。だったらオレが挑戦してみようか--。

イタリア人にとっても「高嶺の花」なのに、50代の日本人のポンコツ頭にできるのか。

でも、だからこそ挑戦する価値があるのではないか。いま、本気でそう思い始めている。