父
僕の親父は卒寿を迎えたばかりだ。その記念すべき日を前に、心不全で倒れてしまった。
幸い一命はとりとめ、いまでは一人で食事ができるまでに回復した。
まずはひと安心だ。
病院に父を見舞いながら、ふと「父親」という存在について考えてみる。
誤解を恐れずに言えば、ぼくは「父」の威厳を感じたことがなかった。
「夢」を知ることもなかった。しつけられたという記憶もない。きっとほったらかしにされて育ったはずだ。
でも、父の「慈愛」は時に感じることはあった。
いったい、僕の父に「城」はあったのだろうか?
僕の父は、一家の大黒柱的な存在ではなかったけれど、家族をないがしろにしたこともなかった。
世間一般の父親像のなかで、僕の父親像はきっと淡泊であったに過ぎないのだろうか?
いや、そうじゃない。僕には3つ上の兄がいて、若い時から父とは衝突していた。
父の「暴力」と対峙していた兄をただ見て見ぬふりをしていた僕は、よく言えば「平和主義者」、わるく言えば、「根性なし」なのだろう。
不思議なもので、いま90歳の父親と63歳の息子は、どこか親しい友人のような会話をしている。
「父を詠むただ字余りの夜長かな」
「魚ならば好きな海ゆき冬隣」。