イタリア語は世界のサッカーの「共通語」
最近、本田圭佑選手の記事を日伊のニュースサイトで見るにつけて、思い起こすエピソードがある。
それは今から10年前、2004年のトヨタカップでのハーフタイムのこと。
日本テレビの実況席にジーコとプラティニが特別ゲストとしてやって来て、明石家さんまの司会でミニ対談が始まった。
2人にはそれぞれ、ポルトガル語↔日本語とフランス語↔日本語の通訳が付いており、最初は彼女らを介して整然と会話が進行していたのだが、やがて、両人とも「まどろっこしい」と思ったのか、イタリア語で直にコミュニケーションをし始めたのだ。
イタリア語の通訳はいなかったので、彼らの「活きた」言葉のやりとりがお茶の間に紹介されることはなかった。
言葉通り「地団太を踏んで」悔しがるさんま氏が漏らした、
「だったら最初からイタリア語の通訳を1人呼べば済んだのに」というセリフが印象的だった。
その時ぼくは、世界のサッカーでイタリア語が「共通語」であることを認識したのだった。
そんなことがあって、ACミランへの入団直後に本田選手の「いまはイタリア語で挨拶もできない。でも思った以上に英語をしゃべれる人が多い。ほとんどの人が英語をしゃべるので(イタリア語を)覚える必要があるのかと今のところ感じている」とのコメントが新聞に載った際、何かイヤな予感がしたのだった。
ちなみに、彼の発言に対して長友佑都選手はこう話していた。
「ボクはとても必要だと思う。インテルも外国の選手が多いが、みんなイタリア語を話せる。長くイタリアでプレーするにはやっぱりイタリア語を習得しないといけないと思う。そう勧める。彼ならすぐ習得するだろう」
2月23日のサンプドリア戦。2対0でミランが勝ったこの試合で、本田選手は攻守に奮闘し、随所にいい動きを見せていた。
しかし、そんな彼の足元にボールがなかなか回ってこない(とくにモントリーヴォは「無視しているのか」と思えるほどだった)。時折本田選手が浮かべる、落胆とも言うべき表情に、観ている方もせつなくなった。
パスが来ないのは、チームメイトがまだ彼を技術的に信頼していないからなのか、それとも常日頃の「言葉のパス交換」の欠如が原因なのか。もしいま、自分が現地にいたらぜひ取材してみたい。残念ながら、その疑問に答えてくれる記事は、いまのところ日本のメディアからはない。
「不言実行」
「答えはプレーで示せばいい」
とは、我々日本人がよく好んで用いる言葉だ。
でも、本当にそれでよいのだろうか。
「ミランの10番」に求められているものは、それプラス、のような気がする。